2011年06月09日

光華寮訴訟

そんな訴訟があることを知らなかった者がアレコレ言うのもおこがましいが、この最高裁判決は一人の人間としておかしいと直感した。
法律事務家としては、その理由を言うべきだろうから考えてみる。
訴訟では当該寮の所有権が争われていたとのこと。ならば、その所有者を確定するのが裁判所の役目、一審、二審は台湾政府が所有者であることを認めたという。
ところが、最高裁でひっくり返った裁判が為された、その法的根拠は(新聞によると)◎台湾政府=中華民国→それが、中国全体を代表する正統な政府(国家)と1972年まで日本も世界も認めていたが、日中国交回復後、各条約によって正統政府は中華人民共和国となった。
原告(中華民国)は同国が唯一の中国を代表する政府(国家)と主張し、そのように原告名称を表示していたが、代表者が変わった時点で訴訟継続能力を喪失した。
それ故、その時点で訴訟は中断した。(そして20年の間、最高裁は何らの判断をしなかったという)提訴から40年経て、情実の理由で台湾政府は国家の代表者としての資格失った故、所有者ではないという結論である。
しかしながら、この訴訟が政治裁判ではなく民事訴訟である以上、根本的に間違っている。(司法は政治から独立していなければいけない→三権分立の原理)
物の所有権取得には
   @原始所得(無主物を拾った場合など)
   A承継取得(正当な売買で買った者)
   B時効取得
とあるが、台湾政府は、前記Aにより光華寮の所有権を取得した筈。
ならば、裁判所としてはその所有権取得が法的に認められるか否かを判断すれば足り、それ以上の判断をすべき立場にない。これが訴訟の原則である。しかるに中華民国という国家(会社も同じこと)の代表者が変わったから、同国家(同会社)は訴訟能力を失ったという法解釈は政治的解釈であって裁判が為すべき法解釈ではない。国家(会社)の表示が変わったから、その権利を無とする?ならば、会社の名称、もしくは代表者が変わったからといってその会社の所有権を否定することになる。権利の主体が消滅したとか、台湾政府から中華人民共和国に権利が移転されたなら、最高裁判決も納得し得るが現実はそうではないだろう。

この点において、最高裁(一つの国の裁判所)が台湾という国を否定した重大な誤りを犯している。裁判所が為すべきでない、政治的判断を二つも為している。勉強不足の私にさえ、このところ最高裁に限らず裁判(判決)は少々おかしくなって来ていると感じる。それは、裁判官(司法の)独立という理念がおかしくなって来たからだと思われる他方、裁判の民主化も叫ばれて来ている。そのハザマにあって、司法本来の独立性がおかしくなって来たということである

分かり易くいうと、マスコミ(国民、世論を代表する?)の影響を受けてしまうようになったということである。
最高裁は下級審と違い、国家権力の影響を受ける。それは随分前からあったし、現にあることであるが、この判決はそれ以前に法解釈民事訴訟の原則からはずれている。

http://shoyo-law.com

posted by shoyo-law at 00:05| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月29日

竹竿作り3

東作切り組 石鯛竿(3本半)

全長:5.46m

  手許   1.12m 淡竹
   2番    1.47m 布袋竹
   3番    1.47m 布袋竹
  穂先    1.40m 布袋竹
    計    5.46m

 この長さ(重さもある竹だから)は相当慣れないと振れない。今のカーボンで軽い石鯛竿が5.2m前後なのだから……

 最初の切り組みは、もっと長かった。多分5.6m前後だったと思う。だから自分の体力、技術に合わせて勝手に切った。
 その為、節が合わなくなった。そのころは竿師のそんなこだわりが、未だ分からなかった。
 10数年も前のことである。我が師も、切ったことに、何も言わなかった。
 我が師は1年くらい前、客の注文によって2本作った。(今、流行りの三本継ぎを)私の知る限り他に無い。
 私は石鯛竿は。3本ほど作り、現在2本制作中である。制作した3本は、東作流3本半が2本、1本は友人に売った。もう1本は、我流4本並継ぎである。
 制作中のものは、いずれも3本継ぎだが、1本は、手許は並継ぎ、もう1本は全部印籠継ぎ。手許は並継ぎにすべきというのが我れ流の考え方であるが、我が師は全部(といっても二カ所だが)印籠継ぎにすべきであると言う。しかし、そうすると振りにくいし、持ち重りがすると思う。
 東作の切り組みが、何で3本半なのか。
 そして、手許だけは並継ぎなのか。
 その点を深く考えてみる必要がある。
 東作(6代)が三本半という石鯛竿に行き着くまでに、石鯛師と共に釣りをし、竿師の培った技術とを結集して開発したものである。
 三本継ぎで、5.2m以上の竿を作るには、1本のしまい寸法は1.9m以上となる。計算的には1.9mすべて印籠継ぎとすると、全長5.7mとなる。
 しかし、それではフニャフニャして扱いにくい。
 そうすると、穂先をマイナス15〜20cm、穂持ちをマイナス20cmにする。と、全長5.4m前後となり、長さとしては東作切り組より短くなる。
 そして、しまい寸法が東作は、1.6m前後であるのに、三本継ぎは1.9m前後となる。これは持ち運びにくいし、美的感覚も3本半よりは劣る。機能的には、変わらないと思う。ならば持ち運び易く、美的バランスの良い方がいい。
 
 どうして今、三本なのか。
 調べたことはないけど、いわゆる南方宙釣り(紀伊方面で開発された石鯛釣法)に関係があるのではないかと思う。
 その釣り方は、手持ちで足許を釣るから、3本継ぎで十分、2本でも良いがそれでは竿の弾力に欠け、石鯛を獲り込めないことになる。それで3本にしたのであって、3本半とは釣り方が違うのである。3本半でも手許をとって、3本にして手持ちにすれば、十分南方宙釣りは出来る。
 そんなことが判らず、石鯛竿は3本に限ると、或る竿師も言った(10数年前、私にその竿を売りつけようとした竿師がそう言った。自分は3本半、それも自分で作った竿を持ってるからいいよ、というと、耳も貸さず、その竿を伸べてみようかというから、さらにいいよ、と言った。その竿は60万と言った。しかしそれ程出来映えも良くなかった。それが60万なら私の作ったものは100万の価値があると思った)。
 そんないきさつがあって、ならば3本継ぎを自分で作って使ってみようと、今、同時併行的に2本作っている。
 原竹が無いので苦心惨胆している。東作のあの原竹があれば、それ程苦労しなくて済むのに、我が師に頼めど、3万5千円もするヨ、もったいないヨと言い、注文してくれない。ところが我が師からそれ以上の金を払い買った竹がほとんど使いものにならない。
 そんなこんなでうまくゆかない。毎日どうすべきか悩んでいる。それが人生の楽しみか、とも思う。
 仕事の面でも悩み、趣味の世界でも悩む。寅さんじゃないけど、男はつらい。


山城弁護士が代表を務める翔洋法律事務所(六本木)HPはこちら
http://www.shoyo-law.com/
迅速なビジネス法務対応や、任意整理、相続など
posted by shoyo-law at 10:00| Comment(0) | 竹竿作り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月26日

ファイリングシステム

1.現在ファイリング(記録)の主流は文書による。しかし、相当部分は既に電子化されている。文書→電子への過渡期である。

「ことば」だけでなく、人間が「文字」を発明したことは大革命である。それは、おそらく、その人間社会において記録する必要に迫られたからであろう。そして、それら記録は、紙の上に記されるから、物理的にその量は膨大となってしまう。
紙に記録すると地球の表面積以上の紙が必要だが、わずかのフロッピーで同じことができるようになった。そうすると、記録はそのうちすべて電子化される。

電子化されにくい記録は、“契約”である。
だが、それも電子化されつつある。契約という事実、すなわち、当該事実の記録(証拠)が電子化されたら裁判も電子化され得る。何も、法廷に行って、訴状のとおり陳述するなどと言うこともない。訴状自体は文書化された一当事者の主張であり、そのことを後に残す記録であるから、電子化された方が機能的である。そうなると、人間社会におけるすべての思想表現は電子化されるのだろうか。

人間社会における記録というものが文明の核であることに気付いたのが、ビル・ゲイツではなかろうか。彼はwindowsという記録装置を創った。
それは、基本的原型であるから、この世には多種多様の世界があるのだから、それぞれの世界(業界)で、通用する原型(モデル)を作る必要がある。例えば、当法律事務所の記録を電子化すれば、スペースは相当部分広くなる。現在でも相当部分電子化され得るが、契約や、裁判上の記録は文書であるから、それらを電子化するに過ぎず、二重手間となるから、そういう部分は電子化していない。
文書という記録がほとんど無くなれば、森林は伐採されず地球環境も良くなる。

コンピュータというものは、もともとの言葉としては計算機である。そのニーズにより発明されたものである。
ところが、副産物として、文字に代わる記録手段としての効用があり、それ故に、その分野において発展したし、また、しつつある。

2.そういう状況(歴史時代)に我々は生きている。そのことを自覚していないと、コンピュータに人間が負けることになる。
現代の若者が自信を持てない根本は、究極的に、(本人は自覚していないだろうが)どんなにあがいてもコンピュータに代表されるシステムには負けるという意識が潜在的にあるからではないのか。コンピュータも大企業も政治のシステムも人間が作ったもの、単に一つの装置に過ぎない。しかも、その企業も、政治も、何も、コンピュータが無ければ、機能が停止するが、それは、我々人間が作った装置、平たくいうと、道具にしかすぎないことに気付かなければいけない。
自分が作ったものに支配されるのは自己矛盾である。(あたかも自分が作った子に、支配されるように…)
それは、どこかおかしい現象である。そこに気付いたら、その自己矛盾は調和され、新しい世界が見えて来る。そして、希望と勇気をもって、結果はどうあれ、あゝ、生きていて良かったと思うのではなかろうか。
多くの人々がそう思う社会が良い社会である。
政治、経済という良く判らないものが悪いといって逃げるから、自己の幸せを掴めない。
サルトルという哲学者は、この世の価値はすべて政治権力に依ると言ったそうだがそれは違う。それは、自分達が作った装置(政治機構)に支配されているという負の自覚である。政治機構も、コンピュータも人間が作った装置である。それが、人間社会には必要なのである。そして、個としての人間からみれば、それは悪である場合もあるが、それは必要悪なのである。(自分達人間が作ったのだから)それは、永遠に無くならない。Aを無くせばBが出てくる。その繰り返しである、人間の歴史は。

3.ファイリングということから、人間哲学的方向に来たが、ファイリングというものは、組織として活動する人間の集団にとっても必要不可欠なものであり、形式的ではなく、実質として重要なものである。人間の活動という点で、企業活動(営利行為)と芸術的活動は対極にあると思われているが、それも同じことである。企業活動の記録、芸術活動の記録は、外観的には様相が異なる。しかし、核としては同じ。それは人間の営みの態様の違いである。

そんな人間社会の玉石混淆した関係を科学的にも芸術的にも整理整頓する。それが究極のファイリングシステムであり、そのことによって、自己矛盾の体系的存在である人間並に人間社会が、次なる展開の希望が持てるようになるのではないか。
(蛇足:次なる展開になっても、さらに次なる展開を志向し、とどまるところを知らない。それ故に生きているとも言える。とどまったら死、終りである。)
posted by shoyo-law at 17:11| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする